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ライブラリー 02.

弾劾裁判所の歴史 / 昭和20年代

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1 概観

 昭和20年代には、罷免訴追事件が2件あり、弾劾裁判所は、いずれも不罷免の判決を宣告しました。

 法制面では、初めての罷免訴追事件が弾劾裁判所に係属した直後に、弾劾法の第1次改正が行なわれたのを初めとして、同法の改正が計5回にわたって行なわれました。

 庁舎の関係では、当初、弾劾裁判所は国会議事堂の参議院内の一室にありましたが、昭和23年5月に訴追委員会が第1号案件を立件したこともあって、法廷を始め本格的な庁舎の確保が急務となりました。このため、罷免訴追事件が係属中の8月に、旧赤坂離宮内(現在の迎賓館)に法廷、裁判長室、事務局長室が設置され、ここを主な庁舎としました。その後、翌24年10月、事務局室は、参議院常任委員会庁舎内に移転しました。

旧赤坂離宮内法廷


2 弾劾機関の発足

1) 弾劾裁判所の発足

 昭和22年11月20日に弾劾法が公布、施行されたのを受けて、同月28日、参議院において参議院側の初代裁判員と予備員が、12月8日、衆議院において衆議院側の初代裁判員と予備員がそれぞれ選任されました。翌23年5月27日の裁判員会議において初代弾劾裁判所裁判長に参議院議員鬼丸義齊(読み。おにまる ぎさい)が互選されました。当時、既に訴追委員会では第1号案件の調査を開始しており、これが訴追された場合に備えて、法廷等の必要な施設を確保するとともに、必要な規則を整備することなどが弾劾裁判所にとって当面の急務となっていました。7月1日には静岡地方裁判所浜松支部 判事に対する訴追事件が係属し、旧赤坂離宮内に8月に設けられたばかりの法廷で9月6日の第1回公判から11月27日の判決宣告まで計10回の公判が開かれました。

 なお、開庁式は、罷免訴追事件の係属により先送りされていましたが、翌24年4月28日、衆参両院議長ほか多数の関係者が出席して、旧赤坂離宮で行なわれました。鬼丸裁判長が開庁式において述べた式辞の要旨は、次のとおりです。

 我が国の裁判官は、憲法と法律以外には何らの拘束を受けることなく、良心に従い、独立してその職権を行なうものであって、ただ裁判により心身の故障のため職務を執ることができないと決定された場合のほかは、おおやけの弾劾によらなければ罷免されないのである。かくて、弾劾裁判所は、司法権の独立と主権在民の関係において新たに設けられた憲法上の機関であり、私ども裁判員は、この意義ある弾劾裁判所の裁判員に選任されたことを心から光栄とし、併せてその責任の重大さを痛感する。ところで、この裁判官弾劾制度は、制度の存在自体に重大な価値があるもので、従って、弾劾裁判所は、本来開店休業が望ましいのであるが、しかし、ひとたび罷免の訴追事件を受理したときは、司法の公正と尊厳を維持するため、厳正公平にこれを審理裁判し、もって負荷の大任を果たさなければならないのである。

2) 訴追委員会の発足

 昭和22年12月8日、衆議院は、初代訴追委員と予備員を選任しました。(なお、当時、訴追委員会は衆議院議員のみで構成されていましたが、後に参議院議員も加わることになりました。)3日後の12月11日、訴追委員会は初の委員会を開き、初代訴追委員長に中村又一(読み。なかむら またいち)を選出しました。また、翌23年11月18日、訴追委員会は、開庁式を旧赤坂離宮で行ないました。



3 罷免訴追事件

1) 静岡地方裁判所浜松支部 判事に対する事件

ア 訴追されるまでの経過

 昭和23年4月14日と15日に、静岡地方裁判所浜松支部判事の行動を問題にする報道があり、訴追委員会は職権で立件し、調査を開始しました。その結果、6月29日、同判事を訴追することを決定し、7月1日、弾劾裁判所に訴追状を提出しました。これにより、我が国で最初の罷免訴追事件が弾劾裁判所に係属することとなりました。

 訴追事由の要旨は、次のとおりです。

訴追の事由
ア) 懇意の弁護士から商用等のため旅行する際の協力を依頼され、一緒に旅行したが、欠勤に必要な手続を取らず、約1週間無断欠勤した。
イ) 弁護士らの商談成立に尽力し、勤務先裁判所等において自己の名義で商用電報の発受を行なう等、自ら商取引の本人同様の振る舞いをした上、商談が破棄されると翻意を促す等のために関係者と種々の折衝をした。さらに、取引の対象となったするめが、重要物資輸送規則違反の物資として警察に摘発されたことを知ると、所轄の警察署に出向き、摘発の事情を聴取するとともに、警察署長らに対し不問にするよう迫った。
イ 審理経過

 弾劾裁判所は、7月3日、同判事の職務停止を決定し、9月6日、第1回公判を開きました。その冒頭、鬼丸裁判長は、

「まず第1に、被訴追者は一般刑事被告人とは異なり、憲法でその身分を保障されている名誉ある裁判官であるから、弾劾裁判によって罷免の判決があるまでは、被訴追者としての制約はあっても、あくまで現職裁判官としてこれを遇すべきである。このことは、裁判官として不適格と認められる者に対しては、断固罷免の判決をもって臨むが、いまだその適格性を失わない裁判官に対しては、逆に不罷免の判決によって当該裁判官の身分を保障しなければならない弾劾裁判所の使命に照らしても、当然の措置である。第2に、弾劾裁判所の裁判員は、国会議員であるため、ほとんど政党政派に属しているが、こと事件の審理裁判に当たっては、裁判官弾劾法19条所定の独立義務をまつまでもなく、あらゆる権力勢力から独立し、真に国民を代表する国会議員としての良識をもって行動すべきである。第3に、弾劾裁判は、一審にして終審である点にかんがみ、その審理は可能な限り委曲(読み。いきょく)をつくすべきである。」

という趣旨の発言を行ない、弾劾裁判所の基本的審理方針を明らかにしました。将来の指針ともなるべき最初の弾劾裁判ということで、その取扱いを慎重に検討した結果を公判廷でおおやけにしたのです。

 こうして始まったこの事件の公判審理は9回を数え、1回の法廷外での尋問を含め、取り調べた証人は30名に及びました。そして、11月27日、不罷免の判決が宣告されました。

 判決の要旨は、次のとおりです。

弾劾裁判所の判断
 ア)については、実質的手続がされたことは、一応認められるが、形式的には無断欠勤である。しかし、欠勤中不時の緊急事務もなく、予定されていた公判は、てん補裁判官により支障なく行なわれたのであるから、弾劾法2条1号には該当しない。
 イ)については、当初は商取引に直接介入せず紹介の労を執ったのみで、具体的に取引の主体となったことも、自己の名義で商用電報を発受するという具体的合意もなかったこと、勤務先裁判所内で商用電報を自ら取り交わしたのは1通だけで、それ以外は事前の了承なく自己の名義を利用されたものであること、商取引への深入りは、裁判官としての立場上、正規のルートに乗せなければならないという主観的善意からであること、利益供与の事実が認められないことからすると、裁判官として明らかに品位を辱める行状であるが、行為の大半は一社会人としての行為であって、この程度では同条2号の威信を著しく失うべき非行とは認められない。
 

2) 大月簡易裁判所判事に対する事件

ア 訴追されるまでの経過

 訴追委員会は、最高裁判所長官から、大月簡易裁判所判事(昭和22年11月15日、谷村簡易裁判所に異動)に対する訴追請求を受け調査を開始しました。その結果、昭和23年12月7日、同簡易裁判所判事を訴追することを決定し、同月9日、弾劾裁判所に訴追状を提出しました。

 訴追事由の要旨は、次のとおりです。

訴追の事由
ア) 知人が闇販売目的で相当多量の繊維製品を保有しているという疑いで家宅捜索を受けることを探知し、事前にその妻に対して家宅捜索も行なわれるであろうから織物類でもあれば他に隠した方がよいと告げ、押収の目的物を持ち出させた。
イ) 知人の知り合いが受けた略式命令の処置について、知人から相談を受けた際、正式裁判の申立てをしておくようにと教え、既に他の裁判官の担当になっていた事件を、交渉して自己の担当に振り替えさせた。また、その公判において職権で取り調べた証人が偽証したことが判明したが、この証人に偽証を教唆(読み。きょうさ)した疑いがある。

イ 審理経過

 弾劾裁判所は、12月11日、同簡易裁判所判事の職務停止を決定し、翌24年4月25日、第1回公判を開き、5月20日の第6回公判で結審し、あとは判決の宣告を残すのみとなりました。ところが、5月28日、同簡易裁判所判事は、訴追される前に提出していた退官願いの撤回願いを提出しました。
 訴追委員会は、裁判員の合議内容が漏れたとの情報があることから、6月6日、不公平な裁判をするおそれがあるとして、鬼丸裁判長の忌避(不公平な裁判をするおそれがあるときに、裁判で職務執行から排除することのことです。)を申し立てました。
 忌避申立ての理由の要旨は、次のとおりです。

  • a 事件を調査中の訴追委員会に対して訴追を勧めたが、これは事件について予断(公判前に事件について内心で判断することです。)を抱いたものであること。
  • b 弾劾裁判所の開庁式での式辞の中で、審理中の事件に言及したことは、不謹慎であり、不公平な裁判をするおそれがあること。
  • c 被訴追者は退官願いを撤回しているが、これは鬼丸裁判長の責任において、裁判員の合議結果を被訴追者又は関係者に漏らしたか、又は知られるようにした疑いが濃厚であること。

 これに対し、弾劾裁判所は、6月28日、時機に遅れた申立てであり、また、合議の結果を漏らしたとか、これを知りうべき状態においたという事実はないとして、忌避の申立てを却下しました。

 また、訴追委員会は、忌避申立てと同時に、同簡易裁判所判事が退官願いの撤回願いを提出したことは事件の審理や判決に影響を与える新事実ともいうべきものであり、撤回の事情を明らかにする必要があるとして、弁論の再開を請求しましたが、弾劾裁判所は、6月28日、請求には理由がないとしてこれを却下しました。

 その後、弾劾裁判所は、8月3日、職権で弁論の再開を決定し、以後、3回の公判審理を行ない、撤回の事情を聞くなどしました。結局、この事件においても最初の事件同様、公判審理回数は合計9回を数え、2回の法廷外での尋問を含め、取り調べられた証人は延べ29名に及びました。そして、翌25年2月3日、不罷免の判決が宣告されました。

 判決理由の要旨は、次のとおりです。

弾劾裁判所の判断
 ア)については、知人の妻に家宅捜索があるかもしれないと告げたことは明らかであるが、隠した方がよいと言った事実は認められない。犯罪捜索上の機密を探査し、妨げになる発言をした責任は軽くないが、偶発的な出来事であり、また、知人と親密な間柄であること等を考慮すると、留置の事実を告げ、家宅捜索に備えようとする知人の妻の行動を阻止しなかったことは、甚だ遺憾ではあるが、やむを得なかった。
 イ)については、偽証教唆の事実は認められないが、あたかも知人の知り合いのために有利な裁判をしてやるため種々画策したと世間が疑惑を抱くおそれがないわけではない。しかし、重大な事項とは認めがたい。
 よって、いずれも弾劾法2条各号には該当しない。
 


4 裁判官弾劾関係法規の制定と改正

1) 弾劾法の改正

 この年代における弾劾法の改正は5回にわたっていますが、主なものは次のとおりです。

昭和23年の改正(同年法律第93号)
ア) 衆議院議員の任期満了や衆議院の解散のため訴追できなくなることは不都合なので、その場合は3年間の訴追期間を延長することに改められました(法12条関係)。
イ) 高等裁判所長官や地方裁判所長は、その勤務する裁判所やその管轄区域内の下級裁判所の裁判官について、弾劾による罷免の事由があると思料するときは、最高裁判所長官に対し、その事由を通知しなければならないこととされ、最高裁判所長官は、その通知があったときや弾劾による罷免の事由があると思料するときは、訴追委員会に対し罷免の訴追をすべきことを求めなければならないこととされました(法15条2項、3項追加)。
 これは、事件が国民の眼の届かないところで処理されてしまうことのないよう、事件を弾劾手続に乗せるみちを確保しようとしたものです。
昭和25年の改正(同年法律第196号)
 「人事官弾劾の訴追に関する法律」の制定に伴い、これと区別するため、「弾劾裁判所」と「訴追委員会」の名称をそれぞれ「裁判官弾劾裁判所」と「裁判官訴追委員会」にすることなどの改正が行なわれました。

2) 裁判官弾劾裁判所規則の制定と改正

昭和23年の制定
 昭和23年9月6日、弾劾法42条による規則制定権に基づく13か条からなる弾劾裁判所規則が公布、施行されました。
昭和24年の改正
 昭和24年8月10日、弾劾法が準用している刑事訴訟法が全面改正(昭和23年法律第131号)されたことを受けて全面改正が行なわれました。
昭和25年の改正
 昭和25年7月29日、弾劾裁判所の名称変更に伴い、題名を裁判官弾劾裁判所規則(以下「弾劾規則」といいます。)と改めるなどの改正が行なわれ、現行規則の基礎になっています。


5 その他

1) 弾劾法改正に向けた聴聞会の開催

 弾劾裁判所の角田幸吉(読み。かくた こうきち)裁判長は、昭和27年4月1日の裁判員会議において、弾劾法の主要な改正項目について聴聞会を開催するとの提案を行ない、翌月19日の裁判員会議において決定しました。これは、それまでの経験に照らして、広く有識者の意見を聴取した上で根本的な改正をしたい、という趣旨によるものです。

 この聴聞会は、6月2日、3日の東京を始めとして、福岡、札幌、京都、仙台と、全国5か所で行なわれ、それぞれ司法関係者、報道関係者、学識経験者、議会関係者等を参考人として招きました。そこでは、情状による罷免判決宣告猶予制度の新設、弾劾裁判所による最高裁判所裁判官の懲戒制度の新設の是非、免官留保制度の新設の是非、罷免の訴追や裁判の評決数の変更などについて、意見を聴取しました。

 その後、弾劾裁判所は、聴聞会で述べられた意見を参考にして弾劾法改正要綱案を作成し、訴追委員会、衆参両議院法制局とも協議を進めるなどして、立法化の作業を進めました。様々な理由から、このときの弾劾法改正作業は、実を結ぶことはありませんでしたが、新しい制度の在り方を模索する関係者の真剣な姿勢がうかがわれます。

[聴聞会開催を呼びかける当時のポスター]


2) 司法をめぐる新たな制度の発足

ア 裁判官の懲戒制度

 裁判所法(昭和22年法律第59号)の制定に伴って「判事懲戒法」(明治23年法律第68号)は廃止され、裁判官の懲戒に関する新たな法律として、昭和22年10月29日、「裁判官及びその他の裁判所職員の分限に関する法律」が公布され、即日施行されました(昭和24年6月1日「裁判官分限法」と改題)。そして、同法の委任を受け、手続の細則を定めるものとして、翌23年6月7日、「裁判官の分限事件手続規則」(昭和23年最高裁判所規則第6号)が公布、施行されました。

 判事懲戒法では、懲戒処分として、譴責(読み。けんせき)、減俸、転所、停職、免職の5種類が定められていましたが、減俸と免職は、懲戒処分としては新憲法上許されず、停職も実質上一定期間の罷免に該当すると考えられ、また、転所は懲戒処分としては無意味かつ不合理ということで、裁判官分限法では、戒告と1万円以下の過料の2種類のみとされました。

イ 最高裁判所裁判官の国民審査制度

 憲法は、最高裁判所裁判官の任命について国民審査を行なうことを規定し、それを受けて、昭和22年11月20日、「最高裁判所裁判官国民審査法」が公布、施行されました。そして、昭和24年1月23日には、我が国で最初の国民審査が行なわれました。

 この制度は、任命された最高裁判所裁判官を罷免すべきか否かを国民が投票によって決するもので、一種のリコール制とされています。

3) 人事官弾劾制度の創設

 昭和22年10月21日公布された国家公務員法には、人事院を組織する人事官の弾劾制度が盛り込まれました。これは、裁判官弾劾制度以外では唯一の弾劾制度で、国会の訴追に基づき、最高裁判所が弾劾裁判を行なうものです。この制度に関しては、昭和24年12月16日に「人事官弾劾の訴追に関する法律」が公布、施行され、翌25年1月28日には、「人事官弾劾裁判手続規則」(昭和25年最高裁判所規則第5号)が公布、施行されています。

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